本土地改良区設立の経緯は、明治28年・29年屯田兵が23府県より家族を引き連れての入植、開拓が始まったが畑作だけでは到底生計を維持する事が不可能であり、他村の耕作状況を見聞きして、明治30年に上川方面その他から50俵程度の種籾を移入、水稲試作をした。結果はかなりの成績をみた。ここにおいて急速に水田熱は上がり、用水路の掘削を計画、屯田兵の練兵を利用して着工したが、意の如くは進まなかった。このような状態で、明治35年3月31日 屯田兵は解体された。
この時、戸長、塙 浩気は水田耕作の有利と必要を強く説き、村有志・総代区長等と相諮り、大企画かんがい事業の計画を樹立、あらゆる苦難を克服、明治37年8月17日、村営工事として約600haの受益区域を持つ用水路工事を完成した。
約10カ年に及ぶ村営時代は終結を告げ、新しく秩父別土功組合として、妹背牛町の一部も包含、地区面積2,900ha、組合員634名の組織をもって、大正元年8月10日北海道庁指令第231号により秩父別土功組合の創立をみることとなった。
昭和24年 北海道土功組合法が廃止され、新しく土地改良法の公布により、本組合は昭和25年7月25日、38年の幕を閉じて秩父別土地改良区として組織変更し、現在に至っている。